今さら聞けないチベットの歴史!
3月14日にチベットのラサで、チベット独立を求めるデモ隊に中国の警察が発砲したことから始まったチベット暴動は、死亡者140人以上、重傷者550人以上、拘束者1,400人以上(3月24日にチベット亡命政府が発表、中国国営新華社通信の発表によると、死亡は市民18人、警官1人、拘束者は414人)をだすという大規模な騒動に発展しました。
3月27日には、ポーランドのトゥスク首相はチベット情勢を理由に北京五輪の開会式を欠席することを表明しました。チベット情勢を理由に開会式欠席を明確に表明した政府首脳は同首相が初めてで、内外に大きな波紋を投げかけています。
ところで、このチベット暴動はなぜ起きたのでしょうか?
中国が抱える問題とは何なのでしょうか?
今回は、この“そもそもチベットとは・・・?”について話していきますね。
もともとチベットは独立国でした。その独立国チベットに、1950年10月7日中国が侵攻してきたのです。中国は「僧侶や貴族に支配されている農奴を平和的に開放するのだ~」と言って侵攻してきましたが、本当にそうだったのでしょうか。
本音は「チベットが欲しいけど、今の時代そうも言えないから、開放ということで居座ろうぜ!」ってとこだったんですよね。この侵攻で中国はチベットを自国の領土にしました。
当然チベットの人々は抵抗しました。この抵抗は1959年のチベット動乱まで続き、僧侶らを中心に87,000人の死亡者が出たといわれています。このチベット動乱のときに、チベットの最高指導者ダライ・ラマ14世はインドに亡命し、チベット亡命政府をつくります。
これによって、チベットは、完全に中国のものになってしまったのです。
1989年3月5日にはラサでチベット独立を求めるデモが発生しました。
このデモは暴動に発展したのですが、この暴動を徹底的に弾圧したのが当時チベット自治区党委員会書記だった胡錦濤(現在の国家主席、共産党総書記)だったのです。
彼は、中央政府の指示を待つことなく軍を出動させ、僧侶らを徹底的に弾圧したのです。
その功績が時の最高実力者眷小平に認められ、その後出世の階段を登っていったのです。
この弾圧の後、中国は漢族(北京とか上海に住んでいる本来の中国人)のチベット移住を奨励しました。移住者には土地を与えたり、税金を軽減したり、チベット人との結婚を奨励したりしました。また、チベット人に対しては、チベット語の使用を禁止し、チベット人の心のよりどころだったチベット仏教の教義を中国にとって都合のいいように変えていきました。
このような政策の結果、チベットはどんどんと開発されたのですが、それと反比例してチベット人の心は踏みにじられ、悲劇と怒りが深まっていったのです。
この悲劇と怒りが頂点に達した結果起こったのが今回のデモであり暴動であった、ということだったのです。
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